穏やかな空

君と春のはじまり

ザザ…と波の音。
懐かしい潮の香り。
柔らかな水色の空。
すぐそこで靴を脱いだから、足の裏にサラサラの砂の感触がする。
「やっぱ来てよかった〜!」
隣の朔が前に腕を突き出して伸びしながら言う。
「…うん」
波の音や空気が心地よくて同意せざるを得なかった。
俺の返事に朔は嬉しそうに笑った。

話は数時間前にさかのぼる。
鳴り響いたチャイムにドアを開けると、なんだか元気いっぱいな朔がエコバッグを差し出してきた。
「たこ焼き買ってきた! 食べよー!」
それよりも気になることがあって、間髪挟まず尋ねてしまう。
「朔、寒くない?」
「へっ?」
厚手ではあるけれど、パーカーにジーンズ姿の彼。
一方で俺はエアコンのきいた部屋で、セーターの上に着る毛布を羽織って仕事をしていた。

「健太! 外に出よう」
朔がエアコンのスイッチを切って、俺の上着も引っ剥がそうとする。
「ちょ、朔!?」
やんわり抵抗する俺に、君はこう続けた。
「最近外に出てないだろ?」

確かに数日前食材を買いだめてから引きこもっていた。
体調が良い日は1日1回は外に出るようにしているのだけれど、ここしばらく忙しさにかまけてそれを放棄していた。
「外のがあったかかったりするんだよな、最近。どこか行きたいところとかない?」

…まぶしい。その笑顔も、行動力も。
正直「なるほどそうなんだ」で済ませたかったけれど、朔を見ているとそれも気が咎める。

「海……」
するりと口から出た単語に自分で驚く。
子どもの頃行ったきりだった。
夏休み、混み合った海水浴場に家族で行った。
まだ健康優良児だった俺は人混みにもまれつつも泳ぎも砂遊びも満喫したんだっけ。

「行こ! もし具合悪くなったら肩でも膝でも貸すからさ」
そうして今、2人で潮風に吹かれている。

君がいてくれなかったら見られなかった景色。
朔の指にそっと自分の指を絡める。
君は少し驚いたように俺のほうを見たけれど、すぐに前に向き直った。
繋いだ指にわずかに力を込めると、君も同じだけ返してくれる。
「連れてきてくれてありがとう、朔」
返事の代わりに微笑む君が可愛くて、愛おしくて、衝動のままに抱き寄せた。

初春の海は朝なのも手伝ってか誰もいない。
君の手が柔く俺の背にまわるのを確認してから、一層力を込めて抱きしめた。

波音が響く。
どこからか鳥の声がする。
今日は夕飯に誘って、君の好きなものを作ろうと思った。