仕事帰り、あじさいがきれいな住宅街。
黒猫が俺の前を通りかかる。
「にゃーん」
声をかけてみたけれど、スルリと通り過ぎていく。
気づいたら左耳のピアスに触れていた。
あなたにもらったシンプルな形のそれは、俺が彼女からもらった最初で最後の贈り物。
あなたに話せたらいいのに。
いま、黒猫に無視されたこと。
今日仕事中にレジで話したおばあさんの笑顔がとても優しかったこと。
あなたの好きな銘柄のチョコレートに新作が出たこと。
昨日食べたお惣菜コーナーのカツ丼がおいしかったこと。
(会いたい)
もう叶うことのない願い。
はたと落ちていく涙は、降り出した小雨に紛れていく。
「あ、洗濯物……」
現実はいつも厳しい。
そして、優しい。
衣類を急いで取り込むミッションがなければ、俺はこの場でしばらく立ち尽くしてしまっていただろう。
「あなたが「さっくん」ですか?」
金木犀の香る時期だった。
「え?」
「これを渡すよう、妻に言われていたんです」
深めに被ったキャップ、サングラス、「憔悴しきった」という言葉がぴったりの声。
「もっと早くにお渡しするべきだったんですが…」
彼が俺に差し出したのは空色の封筒。
やわらかな字で「さっくんへ」と書いてあるのが見える。
思わず地面に崩れ込んだ。
わかっていたんだ、いつかこの日が来ること。
でも、あとちょっと、あとちょっと…って、ずっと願ってた。
俺が恋をしたあなたは、強くて優しかった。
明るく笑っていたけれど、重い病を抱えてた。
学生の頃に交際を始めたという旦那さんがいた。
そんな手の届かない彼女は、もう顔さえも見られないところに行ってしまった。